僕にとってのカラダの感覚、自分を味わうことについてのつぶやき

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僕にとってのカラダの感覚、自分を味わうことについてのつぶやき

今回の記事は、つぶやき的で、とっても抽象度高くてすいません。

ただ記録に残しておきたいので書いています。

ここ数カ月、身の周りで起こる出来事が様々あって。

一見すると、それらは種類の違う出来事であったから、なかなか明確に原因を捉えられなかったんです。
(大元の根本原因は共通だろうな、という感覚はあったんですが)

ただ、これって、僕が幼少期のときから何かに警戒していた感覚が引き起こしているものだなぁ、というのは薄々感じていて。

ここ数日の間で、その謎が解けてきた感じです。

僕のなかにある「警戒感」は、もはや僕が思い出せない記憶にある、おそらく母との関係性のなかで身につけたもの。アタマの記憶ではないカラダの感覚的なもの。

その警戒感が、僕自身が「自分を感じる」ことを部分的に遮っていたみたいです。

で、記憶にないものは、どうにも対処しにくいなぁ、と思って試行錯誤していたんですが、

なんとか「自分を感じる」ことを、部分的にも遮らずにすべて感じる(?)方法が見つかった感じです。

その方法は、自分の意識の向け方を変えること。

具体的には、言葉の微妙なニュアンスの違いでしかないのだけど、僕にとってはすごく重要で。

「自分を感じる」のではなく、「自分を『味わう』」に意識を向けること。

そうすると、カラダの感覚の重心が、お腹あたりにいって落ち着く感じがあります。

まだ慣れていないから、フワフワした感覚はあるんですが、落ち着きやすくなります。

今、練習しているのは、この感覚を「常駐」させること。

歩く時、座っている時、喋る時とかも。

実際、これを実施してみたところでは、少し起こる出来事が変わってきています。

まだまだ練習が必要なんですけどね。